昭和55年11月18日 月次祭
一年一年有り難うなって行くという信心でなからなければ、お道の信心とはいえないと私は思います。その為には一生が修行ぞと仰せられるのですから、信心の修行を抜きにしては、一年一年有り難うなって行くという、おかげには繋がらないと思うんですね。そこで今朝からの御理解に、「元をとって道を開く者はあられぬ行をするけれども、後々の者は見やすうおかげが受けられる」と教えておられます。
だからその見やすうおかげを受けられるという、その見やすいという事が、段々焦点が変わって来なければならないね。教祖様はまぁいうならあられぬ行をなさって、お道の信心がまぁ生まれた。そしていうなら見やすうおかげの受けられる信心を樹立されたね。その見やすうおかげが受けられるという事はね、なんにも分からないお願いをしたおかげを頂いたね。段々それからいうならおかげを受けた、信心というおかげを受けて来る。いうなら分からなかった信心が分かって来る。
「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよ」と仰せられる、私ども周辺の様々な出来事も、万物一切が私どもの信心の対象にならないものはないね。そこで合楽では成り行きを大切にせよ、成り行きを尊ばせて頂け。もうこのところに入って参ります時にゃお道の信心が、段々いわゆる信心を頂いてくる事になるのですね。その成り行きを大切にする、成り行きを尊ぶという事が、その事の道理が分かって、それを実際に行の上に、生活の上に現してまいりますと。
いわば有り難うなって来るだけではない、楽しゅうなって来る愉快になって来る。信心生活がいよいよ有り難いものになって来るね。難しくはないのです、段々体得して行くね。そこからいいうならお徳を受けるという信心に、信心を頂きお徳を受けると。もうこれは限りがないね。そのお徳があの世にも持って行かれる、この世にも残しておけるという程しのものでございますね。だから一足飛びにそういうお徳の受けられると、いうような事は出けませんけれども。おかげを受けて信心を受けて。
そして徳を受けて行くという、そういういうならば段取りになっておるのですから。その段取りを間違えないように、信心を進めて行くという事が大切でございます。いわゆるそのおかげおかげといいうて、おかげの事にばかり幻惑されておりますと、信心を頂かず、徳はなおさら受けられないという、生涯で終わってはつまらないね。それをまぁいうなら誰でもその気になれば、けれるように説いてある、また明かして行こうとしておるのが、合楽理念だと思うです。
まぁ合楽理念はもちろん、まぁこれからもま限りない信心に、まぁ取り組んで行く事でしょう。皆さんがどのへんのところを辿らせて頂いておるか。信心が育ってくるそれも、いわゆる教祖様があれもこれも修行しておって下さり、体験しておって下さり、天地金乃神様からその都度都度に、そこの時にはこういう信心があると、信心を教え示しておられます。見やすうおかげが後々の者は見やすうおかげが受けられる。一番初めと最後のところになって行けば行くほどに。
難しいのではなくてやっぱり信心を頂くという事の嬉しい、楽しい徳を受けて行くという事になれば、いよいよ有り難さは募って来て、有り難いというよ見やすいのですね。だからいつも信心は見やすいもの。その見やすいものという事で今日は研修の時に、まぁ先生方と話した事でございます。そのへんのところを一つザ―ッと考えてはならんのです。見やすいというお言葉の内容を、一つ味わって行かなきゃいけません。若先生が親教会修行に参ってます前だったでしょうか、修行終わってからだったでしょうか。
家ではなかなか修行が出けませんから、どっかお徳を受けられた厳しい先生の所で暫く修行をさせたいと。そんな考えでおりましたら、ちょうど親教会に参拝しておる道中でしたが、飯田の酒屋さんのあるちょうど、あの所を通る時でした。神様があの高良さんからずっと、この耳納山の耳納山ずたいのところを御神願に頂いた。私が思うておるのは、例えば私が耳納山、ここの上を発心山と申しますが、発心山の頂上を私が極めた。
だから子供達にも特に若先生にはね、いうならば厳しい所でひとつ修行でもさせて頂きたいと思わせて頂きましたら、神様がねお前は下からずっと険しい道を登らせるような修行を思っておるけれどもね。そういう修行をせいでもこの耳納伝いの、いうならば今自動車が通るように出けてるんですね、ずっとこの耳納山の頂上は。あの頂上をね歩いて行くだけの修行という事を頂きまして、ようするに修行にやる事を止めましたね。
皆さん高良さんからずっと、あの頂上伝いに、まぁこの上ならこの上まで登って歩いて参ります事は、難しい事じゃないでしょうもん。そりゃこの耳納山というのは、大変険しいですから、ほれはもう六合目、七合目、八合目辺り行くと、もう息が切れれるようにやっぱあるです、ここを登ると。もう頂上はすぐそこに見えておるのですけれども、もうこの辺で止むるかというごと、やっぱきついです。これは勿論子供の時でしたけれども、きつかったです。
ようにそういう息せっきる様な修行はしなくても、険しい所を分けて通らねばならない様な修行をせんでも、いうならこの峰伝いに歩いて行けばと、神様は教えて下さったのでございますけれども、中々いわゆるそれを行の上に現して行くという事は、やっぱりその気になったら見やすいのですけれども、その気にならないと難しい。みやすうおかげを受けさせると仰せられるのはそういう意味なんですね。やっぱり上にでもこう丘懐がありましてね、やっぱ坂ん所もありゃ下りの所もあるんですこの峰伝いでも。
それにそこを歩こうとはせずに、いうならば寝たりころんだりしておっては、いくらみやすい道でも、頂けないという事になりましょうが。なら皆さんの場合でもそうです。みやすうおかげが受けられるというても、はぁもう家から拝んどきゃおかげ頂くというような時代もあって良いでしょうけれども。例えてまぁ申しますとお道の信心は昔からね、朝参りからと言われておりますね。その朝参りが苦にならんでそれが身に付いて来る。いうならば血に肉になって来るね。それが楽しゅうなって来る。
いわゆるおかげを受けて信心を頂くという過程なんですね。朝参りも一日御教えを日々頂いて行くという事が有り難い。それはもう信心を頂くという事が、こんなにもみやすくて楽しいものだと分かりかかっておられる方達なんですね。そして信心を頂いて行く一年一年有り難うなって来る。その有り難いという心がね、先日ある総代さんが発表しておりましたように、こんなにおかげを受けても良かろうかというような、ひとりでに物が出けるようなおかげともなって来る。そういうおかげの世界。
まぁいうならば極楽の世界。マイホームの的なおかげの世界とも、まぁいえん事はないですよね。その辺のところから段々信心が育って参りますからね、お役に立ちたい立ちたいの一念が生まれて来るんです。信心が少し大きくなって来る。その方が申しておりました。私が今日こういうおかげを頂いておるのは、どこに元があっただろうかと。まぁ色々考えて見て、これだろうと思われる事はね、段々おかげを頂いて親先生の手にも足にもならせてもらおう。
いよいよの時には、先生私がおりますからと胸の叩けれるような自分になりたい一念を、何十年間持ち続けたからだろうといっておりますね。大願の氏子のために金光大神が身代わりの修行をして下さるとある。私どもの願いがねいうならば、おかげを頂く世界から信心を頂く世界。信心いよいよ分からせて頂いてくる事はね、いうならば神様に喜んで頂きたい、という信心に育ってくるんです。神様に喜んで頂きたい、親先生に喜んで頂きたい。本当にあの氏子がおるから、あの御信者がおられるからと。
まぁ神様が思われまたは先生が思うような信心にお育てを頂く。それが信心が育って来た事になるのです。信心が詳しくなったという事だけではない訳ですね。そこにいうならばひとりでに物が出けるような、おかげにも繋がって来る訳です。ですからそのおかげをいよいよね、日々日参聴教信行家業の行と、これ合楽では今申しておりますよね。日参、教聴、信行、家業の行。これは日参的という風にここでは申します。合楽の場合はもうこの近傍だけじゃないですからね。
今日本全国からお参りをして参ります。ですからその人達が日参という事は出けませんけれども、日参の積りでという信心を皆さんがなさいます。お電話をかける時には、もうちゃんとお初穂は包んでから、お電話でお取次ぎを頂く。日参の積りでお賽銭箱の中に、いうならば日参させて頂いた積りで。中にはもう日参。この人なんかはもう本当にまだ信心は若いですけども、もう見事なおかげを受けて行かれますね、もうそのそういうところをねスキッとこう分かって行くという事はね、お賽銭もいりゃバス代もいる。
そすとお初穂もいるともうお賽銭も入っとれば、バス代も入って日参的信心を月に3回か4回か参って見えます方がありますがおかげを受けます。まぁそのへんのところになると信心も段々ね、和賀心からも練り出すが良いと仰るような、練り出されて来て自分ながら回心の縁というかね。改心の縁というですかが心の中に感じれれる。本当に和賀心が拝みたい。いつのまにこの様に成長をして来ただろうかと、自分が有り難うなって来るような、信心が段々身について来なければいけません。
これを私は日参的信心だとね、神様が日参としておかげを受けて下さるね。聴教。これはもうおかげの泉をもうそれこそ先日、四国からお参りをして来た先生などは、もう真っ赤になるほどに要所要所に赤丸をつけたり、棒を引いたりしてもう一月読み上げた時には、もういっぱいその赤線で埋まるというようにね。先ほど頂いた読ませて頂いた時には、ここには気付かなかった。という風にそのあのおかげの泉を、もういよいよ深く広く頂こうとする精進が私は聴教だとね。
毎日毎日御理解を頂いておりますという印として、神様は受けて下さるのですどうでしょうか。一回皆さんの手元もう求めておられるでしょうが、おかげの泉を一辺ズラッと読んだだけ。この頃は見出しがついとるけん、もう見出しだけ読んでもう読んだ積りでおる。繰り返し繰り返し読ませて頂く内に、なるほど聴教の有り難さが身に染みて来る。教えを頂くという事の有り難い事が分かって来るね。次のおかげの泉が待ち遠しい。信行、家業の行は、誰でも同んなじなべての事に取り組む事が出けるのですね。
もうそれこそお風呂に入らせて頂いても、履物一つ揃えさせて頂くでも、お手洗いを使わせて頂くでも心行が出けるとここでは説くです。皆さん実行が出けておられますでしょうか。お風呂入ったらねキチッと自分の入った石鹸で、こうドロドロしとるとは流して洗って来にゃいかんね。タオルでもポンとしたちょっと引っかけただけじゃなくてから、ピチッと絞ってこうとこう四隅をね、そすと後から使う人が気持ちがいいだろうと。はぁここの風呂はいつも清潔だと思う。その心がおかげになるのです。
思う人がおかげになるのじゃない、それを思わせた人がおかげになるのです。下駄を言うなら揃えて上がってくる人が、はぁ気持ちが良いいつもここは下駄がキチッと並んどると、その思う人じゃなくてそれを思わせる働きをするのが心行なのです。お商売をさせて頂くならいっつも自分の心の中に算盤だけを持つのではない。今日はいくら儲かって、いくら損したじゃなくてね。もういかにすれば神様が、いやお客様が喜んで下さるだろうかという事を思い続ける事が心行なんですね。
心行はもう至る所寝ても覚めてもどこででも出ける。布団の中でも出ける。お客さんが喜んでさえ下さりゃという事は、損してでも良いという事じゃないのです。そこには算盤は持たんでもね、それこそお客様が儲けさせて下さる。という事を言い返ると、神様がおかげを下さる。目先は二銭損のようでもね、と教祖様が仰るが。お客様が喜んで下さる事を一生懸命思えば、値段も安うせずにはおられない。日田には合楽理念実験実証の店というのがあります。
私は何処ででもそういう看板が、お道の信心をさせて頂く商社の上には、事務室なら事務室に掲げてあるようなおかげを頂いたら、おかげを頂くです。それはもう本当におかげを頂いてるです。食料品屋さんですね、もうとにかく後ろ前ちゅうか、右左というでしょうか。もうスーパーが出けた時なんかは、もういよいよ駄目ですからというて、止めるお届けに夫婦で見えました時にね、アンタん所でなからなければ出けん商売をしなさい。そこからいうならばお客さんが喜んでさえ下さればという一念を燃やしたら。
段々お店が繁盛するようになった。もうそのスーパーならスーパーに行ってから、また帰りに寄って、やっぱここでなかにゃいかんというて、買うて行って下さるとこういう。商品が陳列してある前を通る、跳ぶとその商品が物をいいかけてくれる。符帳を付け替えてくれっていう。ある時そういうような事があったというんです。ある乾物でしょうね。乾物が物をいうなんてですけども、合楽ではそれを信じる私はおかげを頂きたいと、こう思うね。もう全然今までとは物の見方いわゆる観念が変わって来るんですね。
おかげを頂く信心を頂く頃になって来ると、神様が物をいうて下さるのが感じられるです。商品が物をいうてくれるんです。そしてまっくどくどとその乾物が物をいうてくれる。どうしてじゃろうかとこう思ったらね、いつまでもここにこの高い値段でここにおった分では、ここで見晒しになってしまわにゃならん。それでは自分どんがこの世に出て来た値打ちがない。一銭でも安く売って貰うとお客さんが喜んで買うて行って、お客さんの用に役に立つ事が出ける。それが食品なら食べて貰う事が出けるという事が。
自分達の心であり願いであると説明をしたという事です乾物が。もう早速符帳を符帳というでしょうか定価を変えてしまったね。そして合楽理念実験実証の店という様な看板を上げて、お店をなさっておられるという店がございます。家業の行というのはねそこまで行かなければ、私は本当のただ一生懸命もう今日も働かせて頂きました、お使い回しを頂きましたというだけが行じゃないね。心が神様へ向かいいうならばお客様が喜んで下さるという事に、焦点を置いて明け暮れする商売でなからなければいけませんね。
それこそお客さんの懐に手を突っ込むような信心を、商売では駄目だと。これは大阪の当時日本一といわれなさった湯川先生のお言葉です。神様の懐に手を突っ込めと仰ったと。無尽蔵限りないおかげに繋がられる信心。段々ね信心が分かって来る。そしてこれがお徳であろうかと。不思議なんです。心の変わって行くそれに取り組ませてもらうと、そげなこつが思えるだろうか、そげなこつがあるだろうかじゃなくてそれがあるんです。そういう風に変わって来るんです。
ちょうど先だって青年大会がここで盛大に行なわれました。今年は私は講師でしたから、お話を終わってまたすぐここへ出て参りましたら、お参りの御信者さんが続いておった。もう十数年前お母さんが熱心に信心をして、そして自分もまぁ子供の時からお参りをして来ておった方が、子供さん連れて参って来てました。してまぁある難儀な問題のお取次ぎ。この人がお嫁に参ります時に、色紙に何か持たせてやりたいからというて、お母さんが色紙を持って来た。そん時に私が四方拝と書いてあげた。
四方拝というのは元日の事を言うんですよね。だから元日という意味だけではなくて、まぁ元日の心で暮すという事も意味がございましょうけれども、自分の周辺の一切を拝む心を作れというてやり、あの時の事を覚えとるかとうたら、はぁちゃんともう飾って拝みよりますち。拝みよるばってん拝むだけでいっちょん実行せん。だからそこにまぁいうような問題が起きておるのだと。その事もだから拝まなきゃいけないよと。まぁ申しました事でございます。
なぜ拝まなければならないか。拝むというなら実験するとどういう、実証が生まれて来るかという事を、もう子供が中学校と言うですから、14、15年でしょうかの間もう四方を拝む一切を拝み、まっ今成り行きを大切にするといった様な信心が出けておったら、素晴らしかろうとこう思う。まだここにご縁を頂いて2、3年。今晩参っておられます。その方が先だってから御主人の会社がまぁ倒産寸前である。まぁ調子が悪い次々と止めて行かれる人があるから、その為にまぁ何ですか告別式じゃなかはっは。
何ですかねお別れを送別会そうそう。告別式じゃないはっはっは。でその毎晩その飲む事が続いておるという。夜中に警察から電話がかかって来た。もうあんたんがたん主人が大虎なってから、もうそのどんこん手が付けられんから、奥さん呼びに来てくれち。もうそれを聞いた途端に、もう涙がこぼれるほど有り難かったげな。はっは嘘のようですけど本当なんですよね。信心にゃその取り組んでおりますとそういうね、心の状態になれれるんです。そしてあちらへ行ってから、もうお父さん本当に嬉しいですね。
楽しいですね毎日飲めて。そして警察までお世話になってから本当有り難い。ほしたならもうお父さんが猫んごと大人しゅうなったげな。それこそ虎が猫に変わったちゅう様なおかげ。帰ってからもう本当にお父さん、有り難い勿体無いていうて、もうお前ばっかりは何がそげん有り難かというて、まぁ機嫌良う休んだというお届けが、その方の次にございましたね。本当にねあのこういう時に有り難いという様な心が起こる筈はないのだけれども、起こって来るのが信心なんです。いわゆる実証です。
日頃どのくらいに目の細い詰まった、いうならば修行をしておられるかという事が分かります。一切が神愛と言われるが、もう本当機嫌良う帰って来た時が神愛だけではなくてね。それこそ虎になって警察にお世話になっとる。その事も神愛の現われなんです。と思うた時にそうそう心が警察に迎えに行く時に、心がときめいたというておられます。はぁもう神様の御都合を思うたらとこういうのでしょう。こういう変わった事が起こって来たね。お互いの心の状態というものは。
、そりゃ本当に心一つで全てを作るというが、一遍で出来る筈はありませんけれどもね。嫌な事だ困った事だ悲しい事だ、苦しい事だと思うておった心が、段々段々どんな事に出会っても、合掌の出けれる有り難い心が育って来る、いよいよ信心が育って行っておる。そしてこの道を貫かせて頂けば、お徳の世界にも入って行けるだろう。生神を目指すとはこういう事であろうかというような心で、日々を過ごさせて頂けるような信心。日参、教聴、心行、家業の行。
それがいうなら目の詰まった日参であり、聴教であり、心行であり。だから遠方におっても合楽では、いうならおかげも受けられる、お徳も受けて行けれるところの手立てが、合楽理念には説かれ、説いてあるのでございますから、それを実験しなければ駄目です。もう長年信心しよってそげな事ばアンタ気になるかと。この頃次々結婚がもう本当にそのう、娘のその結婚式にどこへ行っても、今何ですかね会場が一杯なんです。
だから一番皆が好かん、いつも料亭なら料亭が開いておる日があろうがちいうて、私はまぁ申しました。わざわざその悪い日を選ぶ事はいらんけれどもね。というて皆んながそれこそ猫も杓子も一緒に、信心けっこうな信心って聞くともう、ところてんを押し出すように、さあさあ次は次の番ですよちゅうごたる風で、押し出されるような結婚式、それが日がよかという訳なんです。
まぁそんな便利の悪い事をしなくてもね、もうそれこそ四六時中神愛の道溢れた日々であるという事が、第一お道の信心を頂くようになったらここんところがね、今までの観念というものが変わってしまわなきゃ駄目ですね。なら世間一般で言う事だけはというような、いうならば迷信に引っ掛かっておる様な生き方では、いわゆる心行家業の行が出けません。皆さん日参教聴心行家業の行。信心はみやすいもの。またはみやすうおかげが受けられる、いうなら手立てというものはですね、
寝たり転んだりでは、そのまぁそれは楽でしょうけれども。それでおかげが頂かれるという事ではなくて、小学校には小学校、中学校には中学校、高校大学とね、進めて行くそのいうなら勉強の楽しみとか喜びとか、学徳が身について来る喜びを感じながらですから、信心いうならばみやすうおかげが受けられるのでありね、みやすうおかげを受けさせると仰せられるのはね、信心の段階ですからね。
小学校の人に大学の真似をせろというても、そりゃあ難しいですね。だからお互いの信心がその一段一段進んで行っておらなければならない。その明かしとして自分の心が一段一段有り難うなって行かなければ。昔の自分ならもうそれこそビックリ仰天であろうけれども、今日の自分の心の中には安らぎと喜びがあるだけだという様にです、この心の状態が一段一段進んでおらなければならない。
これをいよいよ極めて行こうという事がお道の信心であり、いわゆる生神を目指すという信心でありね。それをとても生神様にはならんでも良いという様な、思う自分もあったでしょうけれども。そうなって行く事が楽しいのだ、有り難いのだと分かって行くのですからね。教祖の神様はそれこそあられぬ行をなさって、そういう楽な信心という事は寝たり転がるとは違う楽なん。いよいよ自分の心が有り難い度合いが高められて行くという、信心を踏まえての日々の信心生活でなからなければならんと思います。
とにかく信心のパロメータ―とでも申しましょうか、計りとでも申しましょうか。自分の心が段々進んで行っておる。一年一年有り難うなって行っておる、そこんところを見極めて。そこんところが分からにゃ。私は今日お風呂へ入ってから感じた事ですけれども。私が今檜の大きな、畳一枚ぐらいな大きいんです。だからこう寝ても足が向こうへ届きませんから、足をちょっとあの手をこう離すと体が浮いてしまうのですね。その浮いとるなりに、こう向きを変えようとしても出けません。
ここにこうしがみところをこう握るところを握ってすると体がね自由ね。あの転進という事を申します。はぁこんな事っちゃいかん、こんな事っちゃいかんとものは、握るところを握っていないから、いつまで経っても向きを変えようと思うけども、向きが変えられんのですよ。だから握るところを握っておくと、それがすぐにこう自分の体を自由にする事が出けますようにね。
いうならば、今日あたりの御理解を頂いて、皆さんがはぁ握るところを握ってなかったなと気付かれたらね、いうならば一切神愛。これだけでも握っとったら、それこそね腹の立って掻き毟ろうごたる心の状態になるのが普通だけれども、それが楽しゅうなって、有り難うなって、心がときめいて来るような喜びさえ頂かれるのです。握るところを握ってるからです。だから握るところを握って信心を進めて、いわば高めて行かなければならんと思います。
どうぞ。